ひきこもることの価値

 

ひきこもり文化論 (ちくま学芸文庫)

ひきこもり文化論 (ちくま学芸文庫)

 

 

こうも日々が情報にあふれてスマホを手放せないでいると、世界でアメリカで日本で、あらゆるところで何が起きているのかニュースに接続されっぱなしで、さらに毎日貪欲に雑食的にイベントに足を運んでは、新刊の本と映画話題作とライブのチェックにも勤しんでいると、何かを知った気になって、その実、左から右に固有名詞を流してるだけで、何ら本質を見つめることもなく押し流されているだけだとふと気づく。その時々で自分の中に太いテーマを持っている時は違う。そのテーマの幹をもっとしっかりと長く育てていこうという核を失わないかぎりは、どれだけ外に何があろうと雑音は雑音にきこえない。シャットダウンして自分の内にこもることがむしろ快楽だと感じるし、いつもと変わらない量の情報に身をさらしていても、むしろ必要なところをすっと見つけて取りこんでいけるところがあるわけだけれども、「ひきこもる」ことなしには、次なるテーマを育てられない。

 

斎藤環の「ひきこもり文化論」(ちくま学芸文庫)はもとの単行本は2003年刊行とのことだが、タイトルにもある「文化論」的な部分を抜き出して読むだけでも、ちゃんと創造性を確保するためにはやはり引きこもりが必要であることだなあ、と頷くところ多数だし、深刻なひきこもりであっても、そこから鏡像的に映し出される日本の有り様も見えてきて興味深い。引きこもりの豊かさを強調しすぎることについてはもちろん慎重な姿勢をとりつつも、「ひきこもることの価値を強調しておくことはぜひとも必要なことなのです。ひきこもりは、人間にとって欠くべからざる、一つの能力でもあるということ。集中的なトレーニングや創造の過程は、むしろ引きこもることでしか可能にならないこと」「非常口さえ確保してあれば、引きこもりは実り豊かな経験たりえます」。

問題は状況依存的になってしまって、出口から出られなくなってしまった引きこもりの場合。ハイバイの岩井秀人作品を思い浮かべたりするが、本書の中で面白かったのが「引きこもりシステム」というものの見方だ。深刻化した引きこもりの原因を探って行くと家族の問題が前景化せざるをえず、そこに特異性を探すほどに問題は解けなくなる(なぜなら、多くは普通の家庭なのだから)。そこで導入されるシステム論的捉え方とは、個人–家族–社会の3つの圏内を設定した上で、それらがうまく循環せずに悪いスパイラルに陥った状況だと考えること。家族に遠因を探るとなるとそれは犯人探しに転じ、「ない」原因探しに躍起になりかねない。過去にベクトルを向けるのではなく、「今ここ」の状況に誤作動が起きていることを前提とし、では条件と諸要素の間における不具合がどんなものであるのかを探ることの方が逆に対策を立てられるのだ、と述べられているのには、なるほどと思う。病理を解決するためには、状況を所与の、しかし不具合が生じている状態として捉え、では正常に戻すためにはどうしたらよいのかを探る、というあり方。ともすると、何も引きこもりに限らずとも、どうしたって自責的、あるいは他責的に捉えがちになるけれども(関係性が閉じているものであればあるほど)、諸要素を見渡してみて、何に不具合があるのかを点検してみる、という方が確かにメンタル的にも健全であることだよなあと思う。

 

引きこもりの創造的な価値から話が飛んでしまったけれども、そこはもう少し考えてみたいと思っているところ。